旅の思い出日誌

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京都旅行11(歴史紹介)日本三大怨霊の物語

(日本最強の怨霊と恐れられた天皇)

日本三大怨霊と言えば、天神様の菅原道真公、生首で有名な平将門公、最後に、一番強い怨念を抱いていると言われた、崇徳天皇です。本日は、この崇徳天皇の、悲運のお話です。

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時代は平安時代末期、後白河院の時代です。安元2年(1176年)に後白河院の近親者である、建春門院、高松院、六条院、九条院などが、相次いで死去しました。これは、崇徳天皇の怨念ではないかと、皆が大層怯えていた翌年、今度は鹿ケ谷の陰謀や、安元の大火他、京都の街を震撼させる大きな事件が相次ぎました。疫病が流行っても、悪霊の仕業と恐怖する時代です、それは大層、京都の街の人々を恐れさせました。崇徳天皇を罪人であるとしていた後白河院も、この事態には大いに恐れ、寿永3年(1184年)当時は讃岐院と呼ばれていたが、現在の崇徳院に改められ、保元の乱の古戦場に崇徳院廟を建立し、慰霊鎮魂に努めました。

 

崇徳天皇は、なぜそれ程までに、恐れられていたのか?それは、崇徳天皇の亡くなり方が、普通ではなかったからです。彼は死の直前まで、爪や髭を伸ばし続け、夜叉の様な姿であったと言われています。自分を讃岐の地に追いやった人々を呪い、崩御した時には、荼毘にふされた遺体の煙が、風の流れる方向に逆らって、京都の方角に向かって行ったと言う逸話は有名です。

 

この崇徳天皇は、鳥羽天皇の第一皇子として1119年に誕生いたしました。当時、権勢を誇っていたのは、白河院でした。白河院は、鳥羽天皇の祖父にあたります。しかし、誕生した崇徳天皇の本当の父は鳥羽天皇ではなく、白河院ではないかと言う噂がありました。鳥羽天皇自身もこの噂を信じて、崇徳天皇のことを「叔父子」と呼んでいたと言われています。白河院の子供であれば、自分から見て叔父にあたるので、そう呼んで忌み嫌っていたようです。

 

白河院は、幼い崇徳天皇を僅か5歳で皇位につけました。鳥羽天皇にしてみれば、21歳と言う若さで、息子に譲位させられたのです。当然、憎しみは募りますよね。白河院の死後、鳥羽天皇は、自分が受けた同じ仕打ちを、若い崇徳天皇に対して行いました。24歳と言う若さで、鳥羽院の指示のもと、僅か3歳の近衛天皇へ、譲位させられたのでした。

 

その後、時代は近衛天皇から後白河天皇へと移って行きます。後白河天皇を皇位につけた鳥羽院が、崩御してすぐに、あの保元の乱が起こるのです。崇徳天皇と、後白河天皇との戦いである、保元の乱で敗れた崇徳天皇は、讃岐に流されました。流された讃岐の地で、崇徳天皇は、保元の乱で亡くなった尊い命を哀れみ、長い年月をかけ、死者の菩提を弔いながら、五部大乗経を書き上げました。完成した五部大乗経を、戦死した者たちの供養と、自信の大いなる反省の証として京都の寺に納めて欲しいと朝廷に差し出しましたが、後白河天皇の命により、受け取りを拒否して崇徳天皇の元に送り返しました。理由は、この五部大乗経には、朝廷に対する呪詛がかけられているのではないか?と言うものでした。

 

この仕打ちに対して、崇徳天皇は激しく怒り、自分の舌を噛み切って、

「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん。この経を魔道に捧げる」

と、したたり落ちる血で書き込んだと言われています。

 

 

崇徳天皇の陵墓のその後

崇徳天皇崩御後の陵墓は、香川県坂出市に建てられている。四国八十八ヶ所の第81番札所白峰寺に隣接している。その後、明治天皇は、自信の即位の礼を執り行うにあたり、勅使を讃岐に派遣して、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させ、白峰神宮を創建した。

崇徳天皇は、歌人としても有名で、小倉百人一首にも恋の歌を詠んでいる。

 

これは、配流先で実際に詠んだ歌です。(風雅和歌集)

「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」

この歌には、京の都を思う気持ちはあっても、人々に怨念を抱いている様子は、まるでありません。

 

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